横浜開港と日本

みなさんは、横浜にある「横浜開港資料館」という施設をご存知でしょうか?

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横浜開港資料館は、横浜のメインストリート、日本大通りの一番海岸寄りの一角、大桟橋に近いロケーションにあります。そしてこの場所こそが、1854年、ペリー提督が、日本に開国を求め幕府と交渉するために上陸したポイントであり、日米和親条約締結の地でもあります。

これを示す物理的なエビデンスとして、史上初の日米交渉を見届けた、「たまくすの木」(関東大震災で焼失したが、根から芽が出て成長)が今も資料館内の中庭の中心に生えています。この資料館は、規模は小さいものの、開国とその後の横浜をテーマにした一級の資料が揃っていて飽きることがありません。

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横浜へお寄りの際は、ぜひお立ち寄りください。http://www.kaikou.city.yokohama.jp/

さて、日本開国、横浜開港の意義を日本あるいは世界の歴史の中でどう位置づけるかには、様々な考えがあるでしょう。19世紀に入って、列強からの攻勢が激しくなった東アジアの情勢が風雲急を告げる中、日本も今までのような鎖国体制の維持はむつかしいとの認識が、おそらく一般大衆レベルにまで広がっていたことでしょう。

そんな中、従来の政策との一貫性、「かくあるべし、こうすべき」論でいえば、攘夷論は、正当な理屈でした。その代表格が、徳川斉昭(水戸藩主)といえます。一方で、アヘン戦争とその後の清国の置かれた厳しい状況を踏まえ、べき論より、「できること、できないことの現実」論、あるいは「損得」論で考える人もいた。その代表格が松平忠固(上田藩主)でしょう。この二人を両極にして、中間派をまきこんで、ジリ貧の幕藩体制で、将軍後継を巡る「権力闘争」に「外交・対外政策論争」が大きな要素になりました。権力闘争が外交政策を巡って行われると、戦前の日本のように、大変危険なことになります。そして、現在の東アジアの情勢もこれに類似した厄介な状況にあるともいえます。

ところで、ペリーが黒船4隻で浦賀沖にやってきて、久里浜で開国を求める国書を日本側に渡したのが1853年6月です。いったん香港に戻ったペリーが半年後に、艦船7隻で東京湾に現れました。そして、先ほど紹介した横浜開港資料館の地で、1854年3月に日米和親条約(神奈川条約)が締結されるというはこびです。これによって、下田と箱館の開港が決定します。その後、日本国内では、攘夷、開国に朝廷、将軍の跡目相続をめぐってのすったもんだがあり、幕藩体制がほぼ終焉しつつある状況下で、1858年6月、日米修好通商条約が大老井伊直弼により調印されました。これにより、下田、箱館に加えて、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が決定したのです。(下田は神奈川開港後に閉鎖)神奈川(横浜)の開港は1959年7月1日(安政6年6月2日)で、現在、横浜市では6月2日を開港記念日として花火などのイベントがあります。

日米通商条約では、神奈川の開港が求められていましたが、この開港の場所をめぐって日米間で問題がおこります。日本側は、開港に反対する急進派も多く政治問題化を避ける狙いがあったのでしょう。東海道神奈川宿(現在の横浜駅北から東神奈川駅の間)に近い神奈川を避け、街道から外れた寒村の横浜を主張します。横浜は神奈川と一体、あるいは一部というのです。当然ながらアメリカ側は、条約に規定されている神奈川開港を求めます。すでに、アメリカは神奈川の本覚寺に領事館を設置していました。

決着しないまま、幕府は一方的に、横浜港と周辺の外国人を受け入れるためのインフラ整備を始めました。要するに、なるだけ外国人と日本人の接触を防止、隔離するために、横浜に長崎の出島的な外国交易特区を作ったのです。それが、現在の関内エリアで、JR根岸線桜木町、関内、石川町駅の海岸側一体。この横浜特区への入り口となる、吉田川に関門を作って出入りをコントロールしたころから、「関内」、「関外」が成立します。当時の横浜は、砂州と干拓でできた新田で、わずかにいた居住者が移転させられ、都市計画に基づいた整備がすすめられました。(下の写真で分かるように、大半が内湾でした)その後、生麦事件など、居留民の安全性の問題が発生すると「山手」の住宅地を含め横浜特区の使い勝手がよいことが理解され、横浜が貿易拠点として急速に発展することになりました。

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この特区を少し紹介すると、現在の日本大通りで、外国人地区、日本人地区を2分、中華街を含む現在の山下町全域が外人地区で、桜木町よりのビジネス街が日本人地区になります。ちなみに、中華街の道路が他の道路に対し斜めになっていて、方向感覚を惑わすことが多いようですが、これは新田を開発した時の地形的な要因によるものです。風水とは関係はないようです。

当初、開国を主導したアメリカが南北戦争で後退すると、イギリスが影響力を強めます。そして、攘夷の急先鋒だった薩摩、長州が、イギリスと直接、戦火を交えることで、彼我の差の現実を知り、開国派に急転換したことで、両藩が明治維新の主役に躍り出ることになります。あまり、論じられることはありませんが、実際、明治維新におけるイギリスの役割は決して小さくないはずです。

一方、国内問題で大きく後退したアメリカとの関係ですが、原則論で日本に攻勢をかけ譲歩を求めるアメリカ。大枠で譲歩しつつ、運用と実務で巻き返し、実利を得る日本。これが、日米交渉・日米関係の150年以上も続く基本構造じゃないでしょうか。そして今、TTP交渉があります。まさに、新たな開国要求といえるでしょう。