日本のダヴィンチ、平賀源内先生うなぎを語る

平賀源内江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!マルチ人間で江戸時代の半ば彼ほど多彩な活動活動をした人は珍しい。

奇才の人

高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行し、世人の注目を浴びました。。

本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩する(33歳)。この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処しました。他藩へ仕官することを禁止するものです。

源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出した。また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布火浣布(かかんぷ石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を生みました。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内と言われています。

一方、画才、文才も惜しみなく発揮。油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生しました。

あまりにも奇才ゆえに、世に受け入れらぬ事もあり、晩年は人を殺め。投獄され発狂 厳寒の小伝馬町の牢内で獄死したそうです。(享年51歳)。

源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻みました。

うなぎうなぎと源内先生

土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで。それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。夏バテ解消の代表格といえば「うなぎ」。そのウナギを土用の丑の日に食べる事になった仕掛け人は平賀源内でした。

平賀源内文政5年(1822年–1823年)の、『明和誌』(青山白峰著)の中で、うなぎ屋と平賀源内についての事が書かれています。元々、うなぎの旬は晩秋から初冬にかけてで、 夏のうなぎは味が落ちます。ですから、夏にはうなぎの売れ行きが悪く ウナギ屋はどこも商売に困っていました。あるウナギ屋が、博学で有名な平賀源内に相談したところ、 平賀源内は「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、 「本日丑の日」と書いて店先に貼ることをウナギ屋に勧めました。

すると、そのウナギ屋は大繁盛!それを見た他のウナギ屋も真似をして、土用の丑の日にうなぎを食べることが定着したのでした。このことから、平賀源内は日本初のコピーライターとも言われています。古今東西、数えきれないほどのキャッチコピーが作られてきましたが、200年以上も色褪せずに使われているキャッチコピーは他にはありませんね。糸井重里氏も真っ青。実際、ウナギにはビタミンAやB群が豊富に含まれ、 夏バテには効果抜群です。

日本人の食文化に定着しているニホンウナギが今絶滅の瀬戸際に追い込まれています。国際自然保護連合(IUCN)の、「レッドリスト」の最新版に絶滅危惧種として加えられててしまいました。

そろそろ土用の丑の日が近づいてきます。源内先生この事態に相談に伺ったらどんな名案やコピーを考えるか。興味のあるところです。

尚、漫画キテレツ大百科の奇天烈斎は平賀源内がモデルとされています。