弘法大師 空海

空海空海(くうかい、774年ー835年)は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号もでられる真言密教の開祖である。嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられ能書家としても知られている。

宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれ、俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。

24歳で『三教指帰』を著して今日の比較思想論の先駆けともいえる儒教・道教・仏教の三教を比較し、中でも仏教の教えが最善であることを示めした。

また『三教指帰』には室戸岬の御厨人窟で修行をしている時、口に明星が飛び込んできたと記されてあり、このとき空海は悟りを開いたといわれている。またその頃、久米寺(奈良県橿原市)で大日教を発見し、密教に興味を持ったのをきっかけに延暦23年(804年)、密教を学びに正規の遣唐使の留学僧として唐に渡る。

その間、青竜寺の恵果に師事して灌頂(かんじょう)を受け、密法を授けられ、また般若三蔵からも学び、806年3月、多くの経理、マンダラ、法具を携え、10月に帰国した。帰国後は真言密教の普及のため京都の高雄山寺に入住し、後816年(弘仁7)43歳の時高野山を開創し、823年(弘仁14)50歳の時、東寺を嵯峨天皇より下賜され、真言密教の根本道場とした。

空海を唐から学んだ密教とはどのようなものであったか、それを知る手がかりとして、密教が生まれる以前の仏教について、知る必要があるのではないだろうか。本来、釈迦が称えた仏教とは神のような絶対者に頼る宗教ではなく、科学のように世界を原因と結果による因果的法則でとらえ、その因果的法則を自己の精神的な向上に結び付けて自力で苦から脱出することを特徴とする。

しかしある意味でそれは自己責任を伴う厳しい行いとも言える。また学問的にも難解になり過ぎ、徐々に仏教は一般大衆から離れていったのである。そのため人気回復をはかって仏教もバラモン教で行われていた呪術や祈祷を復活させ梵我一如(ぼんがいちにょ、梵(ブラフマン:宇宙の原理)と我(アートマン:自己)との一体)による仏教の総合化を試みたのが密教である。密教が最後の仏教といわれるゆえんはそんなところにある。

空海は『声字実相義』で次のように述べている。
「五大にみな響きあり 十界に言語を具す 六塵ことごとく文字なり 法身これ実相なり」

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・声聞・縁覚・菩薩・如来(仏)の十種の世界は、みなそれぞれの言語をもっている。
認識の対象である色・声・香・味・触・法の六塵はすべて文字でできている。
そして、それらすべてを身体(法身)にそなえることが、生成・流動する大宇宙の中で自己が世界が一体化する、つまり梵我一如、即身成仏なのである。

このように自らの思想を大宇宙まで広げたのは日本の仏教者の中で空海だけでないだろうか。

○空海の教え

曼荼羅とは? 東寺

https://www.youtube.com/watch?v=ZEjWyQaHsts

高野山 金剛峰寺 密教と曼荼羅世界

https://www.youtube.com/watch?v=tQ8HrKPp888