クールジャパンな外国人・シーボルト~Foreign Siebold cool Japan~

シーボルトフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)はドイツの貴族の生まれでしたが、東洋研究を志し、オランダ政府により、鎖国時代唯一の窓口長崎の出島のオランダ商館医として1823年に日本に派遣されました。性格的にはプライドが高く33回の決闘をしたとも言われています。

出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行い、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義をしました。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴らがおり、塾生は、後に医者や学者として活躍しています。そのかたわらシーボルトは、日本と文化を探索・研究しました。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝されたようです。

1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭し、地理や植生、気候や天文などを調査しています。将軍徳川家斉にも謁見した記録があります。江戸においても学者らと交友し、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(伊能忠敬の師匠の子息)と交友を深めています。

徳内からは北方の地図を贈られ、景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられました。(幕府禁制)

日本滞在中に日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネをもうけています。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksaと命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測しています。

1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着き、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定でした。

帰国後、オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行しました。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめました。

シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送しました。シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰ったわけです。

当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師として来日していたハインリッヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も同様の調査を続行するよう依頼しました。これらの行為は西洋における日本学の発展に大きく寄与し、日本研究の第一人者として生前はその地位を維持したそうです。

2005年にはライデンでシーボルトが住んでいた家が資料館として公開され、シーボルトの事跡や日蘭関係史を公開しています。シーボルトハウスは、日蘭交流400周年記念の年であった2000年に改装が着工され、2005年3月に博物館として開館しました。

シーボルト切手

シーボルト庭園

https://www.youtube.com/watch?v=7VBoQbBJ9eE

長崎シーボルト邸跡

https://www.youtube.com/watch?v=zYOq1YqP0s8